あるお坊さんのブログ
遅くなりましたが新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。暮れから新年にかけて風邪を引き込んでしまいすっかり年始の挨拶なんて時期でもないけど一応。
ネットサーフしててふとたどりついたブログがある。「寺なし和尚 托鉢日記」。お寺を持たぬお坊さんのブログで、日々托鉢して生活されているとか。
遅くなりましたが新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。暮れから新年にかけて風邪を引き込んでしまいすっかり年始の挨拶なんて時期でもないけど一応。
ネットサーフしててふとたどりついたブログがある。「寺なし和尚 托鉢日記」。お寺を持たぬお坊さんのブログで、日々托鉢して生活されているとか。
4月のドイツに続き、今年2回目の海外旅行は中国・上海へ。意外にも、アジア圏の海外旅行も初めてで、また、一年に二回の海外旅行というのも初めてである。仕事をしながらの海外旅行なんてなかなか厳しいだろうと思っていたが、なんとかなるものである。とはいえ、3日ぶりに今日出勤した私のデスクには仕事がたまっていて、どうやら今週いっぱいは締め切りに追い立てられそうな予感をひしひしと感じる。しかも、次の日曜日には、親友の結婚式があり、私は披露宴二次会の幹事の一人。スケジュールは楽ではない。
さて、少し旅行記。。。を書くはずだったが、眠いので箇条書き。
さらに書籍を購入。
『近世の地下信仰―かくれキリシタン・かくれ題目・かくれ念仏』
『新聞集成 明治編年史』(全15巻)
後者の全15巻がおよそ1000枚のLPとCDをはじめ書籍やらオーディオやらですっかり狭くなった部屋をさらに住みにくくするかなどもはやどうでもいい。このスピードで書籍を買い続けて果たして読むスピードが追いつくかどうかという疑問もまた愚問である。「欲しい」と望む衝動に忠実であることこそが楽しい。
こんな夜更けまで本を読む。安丸良夫の『神々の明治維新』。近世から近代へと移る中で宗教はどう変容したか。まだずぶの素人であるこの分野。とにかくあらゆる情報が新鮮である。参考文献をひとつひとつ調べて、メモをしたり付箋をつけたり購入したり。明日の仕事には少々堪えるかもしれない。しかし、この充実感がいい。こういうときは仕事もなんとか乗り切れる。私のブログにしばしば登場する友人 赤松林太郎氏のブログに最近書いてあった。
「私は、口座の残高がマイナスになりながらも、寒い早朝からパリのオペラ座で安いチケットを求めて並んだ日々のことを時々思い出す。」
かつて高校時代に敬愛した日本史の先生に薦められて野間宏の「真空地帯」を読んだ。第二次大戦中の軍隊生活の凄惨さを「真空地帯」というタイトルに例えて描いたこの小説は、ひたすらに陰鬱な軍隊の実体を暴き、今なお私の心に鮮やかな印象を残している。日本史の先生は、確か戦後間もないころに生まれた人だったが、何を思ってこの著作を薦めたか。二度と過ちを繰り返さないためか、あるいは、戦争という極限状態の中での人間の狂気を教えるためか。いずれにせよ、何らかの教訓を教えるために読ませたのだろう。
寺社の参拝とはおよそ非日常の空間を味わうひとときだと思うが、生まれも育ちも就職先もお寺の私にはそれはむしろ「日常」である。昨夜は永観堂のライトアップを訪ねたのだが、色づいた紅葉に「わぁ綺麗」と酔うよりも、庭園の作り方・見せ方、ライティングの技術等々が気になる。いわゆる職業病というやつだろうが、しかし永観堂はその紅葉の美しさが有名な寺院、学ぶところは多い。いかにして参拝者に満足してもらうか、どうやって大勢に来てもらうか、勉強させてもらった。そして、多少意外ではあったが、私自身も楽しんだ。坊さんの中には、非日常を味わえぬ寺社仏閣めぐりに興味をもたない人もいるが、「同業他社」(笑)を自らの足で歩いて知ることは重要だと思う。素晴らしいひととき。ありがとう永観堂。
17日の土曜日は赤松林太郎氏を迎えて知恩院御影堂でのピアノコンサート。なぜかその司会を私が務めるというサプライズは、満堂の大衆の前で話をするという貴重な体験であった。柄にもなく、脳内は真っ白だった。人前に立つことにあんまり緊張するタチではないのだが、話すのってあんまり得意じゃないからな。用意した原稿を読むのに精一杯。他にも先々週から先週にかけては原稿の締め切りがあったりと大がかりな仕事がいくつもあって、いやあ本当に疲れましたよ。昨日はヤフオクで落札した日本古典思想体系が届いたけど開封する気力もなく、寝てしまった。でかい段ボールに入って今も玄関口に横たわっている。しかしなぜ書物がでかい段ボールに入って届くのか―――それは同じ出品者から15冊も落札したから。「あーあ、部屋はまた狭くなる」という悩みはいよいよ深刻で、ワンルームマンションがいよいよ住みにくくなってきているが、新しい本がやってきたときの喜びはしばし悩みを忘れさせるから手強い。
さっきコタツを出したが去年よりもずいぶんと部屋が狭くなっていることを実感する。もっと楽にコタツを出せたはずなのに。恨み言は言うまい。心が書物を欲しているときに我慢する必要は無かろう。コタツの上にはたった今開封した段ボールから出してきた本居宣長。先日岩波文庫の古書で『玉くしげ』を買い、今朝職場へ向かうバスの中で読んでいたが、示唆されることは多く、本居宣長や平田篤胤など江戸時代の思想家を読んでこなかった後悔は深い。書物を読んでいてそこに自分がまったく知らなかい世界があったとき、私はいつも背筋が凍り付くような感じを受ける。自分の見識の浅はかさを思い知るからなのだろう。宣長と篤胤はそういう体験をひさびさにさせてくれた。大学時代に読んだマックス・ウェーバー以来だ。宣長と篤胤についてはいつかまたここに書ければと思う。
「再開」なんて書くと大げさだが、ここしばらくブログみたいな軽いタッチのものを書いていなかった。学生時代は気軽に発言できても、就職してからだとやっぱり「立場」を気にしてしまうから、ブログ書くにも気遣いがいる。そういう事情も一つ。書いたこと言ったことは常に誰か見ているから徹底的に気にしなきゃいけない―――ブログだからって気楽に書いてたら真剣に読んでいる人に失礼だ―――なんていう躊躇も理由の一つ。あるいは、ただ忙しかったことも理由に加えられるかもしれない。
でも、何かを書くスペースがあるってのは嬉しいことで、これを素直に喜びしばらくは気楽に書く。スポーツ選手が発信するメッセージよりも重く、政治家の活動報告ブログよりは軽く。私にとって、読むことよりも書くことの方がアタマを使うとこの頃気づいた。
今日買った本。
E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』岩波文庫
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫
三浦佑之『口語訳 古事記 人代篇』文春文庫
3冊も購入(上2冊は衝動買い)したのは、今日嫌なことがあったから。本やレコードを買えばストレスが発散されるから素晴らしいが、衝動買いした本やレコードはそれが積み上げられて「読まなきゃ」「聴かなきゃ」というストレスになる。が、後者のストレスは心地いい。
「われわれの間では、人は罪の償いとして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために、教団に入る。」(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』より)
他にも、坊主が戦争に参加することへの批判、肉食し飲酒することへの批判。坊主バッシングは著書の一部しか占めないが、私にとっては当然この部分が興味深い。著者がイエズス会の宣教師だったことをすれば、坊主バッシングがいくらか行きすぎているかもしれないにせよ、指摘が事実を伝えていることは確かだろう。今に至るまで日本の仏教が極めて「俗世的」であると指摘されることに否定の余地はない。だが、俗世的な信仰が長く受容されてきたのなら―――むろん戦争賛美や権力との癒着などは絶対に避けるべきだが―――逆に俗世的ななかにひとつの宗教のありかたを見いだすことも可能だと歴史は語っているのだろうか。