ブログ再開
「再開」なんて書くと大げさだが、ここしばらくブログみたいな軽いタッチのものを書いていなかった。学生時代は気軽に発言できても、就職してからだとやっぱり「立場」を気にしてしまうから、ブログ書くにも気遣いがいる。そういう事情も一つ。書いたこと言ったことは常に誰か見ているから徹底的に気にしなきゃいけない―――ブログだからって気楽に書いてたら真剣に読んでいる人に失礼だ―――なんていう躊躇も理由の一つ。あるいは、ただ忙しかったことも理由に加えられるかもしれない。
でも、何かを書くスペースがあるってのは嬉しいことで、これを素直に喜びしばらくは気楽に書く。スポーツ選手が発信するメッセージよりも重く、政治家の活動報告ブログよりは軽く。私にとって、読むことよりも書くことの方がアタマを使うとこの頃気づいた。
今日買った本。
E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』岩波文庫
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫
三浦佑之『口語訳 古事記 人代篇』文春文庫
3冊も購入(上2冊は衝動買い)したのは、今日嫌なことがあったから。本やレコードを買えばストレスが発散されるから素晴らしいが、衝動買いした本やレコードはそれが積み上げられて「読まなきゃ」「聴かなきゃ」というストレスになる。が、後者のストレスは心地いい。
「われわれの間では、人は罪の償いとして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために、教団に入る。」(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』より)
他にも、坊主が戦争に参加することへの批判、肉食し飲酒することへの批判。坊主バッシングは著書の一部しか占めないが、私にとっては当然この部分が興味深い。著者がイエズス会の宣教師だったことをすれば、坊主バッシングがいくらか行きすぎているかもしれないにせよ、指摘が事実を伝えていることは確かだろう。今に至るまで日本の仏教が極めて「俗世的」であると指摘されることに否定の余地はない。だが、俗世的な信仰が長く受容されてきたのなら―――むろん戦争賛美や権力との癒着などは絶対に避けるべきだが―――逆に俗世的ななかにひとつの宗教のありかたを見いだすことも可能だと歴史は語っているのだろうか。