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   <title>あるお坊さんのブログ</title>
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   <published>2008-01-09T17:45:37Z</published>
   <updated>2008-01-09T18:27:03Z</updated>
   
   <summary>遅くなりましたが新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。暮れ...</summary>
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      <![CDATA[遅くなりましたが新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。暮れから新年にかけて風邪を引き込んでしまいすっかり年始の挨拶なんて時期でもないけど一応。

ネットサーフしててふとたどりついたブログがある。「<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/chido882000">寺なし和尚 托鉢日記</a>」。お寺を持たぬお坊さんのブログで、日々托鉢して生活されているとか。]]>
      お寺を持たぬ坊さんなどたくさんいることは、もちろん知っている。お寺の生まれじゃない人が、志を持って修行して坊さんになっても、寺社会は親から子へと住職を受け継いでいく傾向にあるから、なかなかどこかのお寺に入ることは難しい。お寺とは檀家の寄進を受けて建立されたものであり、現在の住職の私物ではなく公的なものであるという意識は割合に乏しい。そんな中で、志高く出家しても、閉鎖された社会の中で挫けていく坊さんが少なくない。

このブログのお坊さんは、「住職世襲」等の現在の日本仏教界の慣例を痛烈に批判しておられて、それがお寺に生まれて伝統的な社会の中で育った私なぞには身に染みる。伝統的なあり方と決別して、托鉢によって生きている。志の高さを感じる。

「仏教離れ」が方々で叫ばれる中、お寺で生きる多くの人が改革が必要であるとはしりながら、それを推進する人は少ない。だが、一歩ずつでも進めないと未来はない。伝統的な体系の中から変えていくか、外から変えていくか、いずれの困難も相当なものがあろう。だが、私もこのお坊さんにならって生きていきたいと思った。
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   <title>上海旅行</title>
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   <published>2007-12-11T15:16:21Z</published>
   <updated>2007-12-15T23:05:24Z</updated>
   
   <summary>4月のドイツに続き、今年2回目の海外旅行は中国・上海へ。意外にも、アジア圏の海外...</summary>
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      <![CDATA[4月のドイツに続き、今年2回目の海外旅行は中国・上海へ。意外にも、アジア圏の海外旅行も初めてで、また、一年に二回の海外旅行というのも初めてである。仕事をしながらの海外旅行なんてなかなか厳しいだろうと思っていたが、なんとかなるものである。とはいえ、3日ぶりに今日出勤した私のデスクには仕事がたまっていて、どうやら今週いっぱいは締め切りに追い立てられそうな予感をひしひしと感じる。しかも、次の日曜日には、親友の結婚式があり、私は披露宴二次会の幹事の一人。スケジュールは楽ではない。

さて、少し旅行記。。。を書くはずだったが、眠いので箇条書き。

<a href="http://vidya.senrenja.net/_MG_5330.html" onclick="window.open('http://vidya.senrenja.net/_MG_5330.html','popup','width=600,height=400,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://vidya.senrenja.net/_MG_5330-thumb.jpg" width="300" height="200" alt="" /></a>
豫園付近にて。土曜日とはいえ人の群れは想像以上。

<a href="http://vidya.senrenja.net/_MG_53481.html" onclick="window.open('http://vidya.senrenja.net/_MG_53481.html','popup','width=600,height=400,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://vidya.senrenja.net/_MG_5348-thumb.jpg" width="300" height="200" alt="" /></a>
束になった線香に火をつけてお堂に向かって祈りを捧げる人たち。]]>
      ■飛行機からホテルまで案内してくれたガイドによれば、上海の人口はおよそ1,900万人。東京より人口密度は低いとのことだったが、市街地の中心は東京を彷彿させる人の群れ。高層ビルの建ち並ぶ様も東京さながら。

■中国は「段ボール肉まん」で物議を醸した国だけに、その手の下手物を口にする期待もあったが、そこまで異様な食べ物には出逢えなかった。衛生環境は決してよいとはいえなかったが、私自身の育った町(尼崎)の環境を思えば、充分に適応できる。

■食事は感動の連続だった。到着日の夜以外は、安いメシを喰らい続けたが、3品たのめば最低1品は驚くほど旨いものがあった。質の高さを感じる。日本の中華料理は日本人向けに味に手を加えてあるのだろうが、本場の味はやはり素晴らしい。

■物価は安い。食事は(高級レストランを除けば)日本の5分の1程度。他も、日本の3分の1程度。貧富の差は日本よりも激しそうで、道を歩けばすぐに物乞いにでくわしたし、少し路地を奥に入れば、生活レベルがずっと下がる区域が随所にあるようだった。

■治安は悪くない。スリはおそらくあるだろうが、よっぽど路地裏に入り込まない限り、せいぜいその程度ではないか。私たちがでくわした唯一の被害は、ニセ札をつかまされたことで、おそらくはどこかでの支払いの釣り銭にまぎれこんでやってきたニセ札は、使おうとしたときに検知器に通されて没収された。レジの人は時々紙幣を入念にチェックしていたから、よくあるのだろう。

■中国では地方ごとに方言があり、北京語を学んでも上海では通じない、と習った。とはいえ、行ってみて思ったが、やっぱり少しぐらいは通じるようだ。たぶんドイツ語圏やフランス語圏の人々が英語への適応力をある程度までもつぐらいには、上海でも英語が通じる。
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   <title>さらに書籍を・・・</title>
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   <published>2007-12-04T17:42:05Z</published>
   <updated>2007-12-04T18:22:18Z</updated>
   
   <summary>さらに書籍を購入。 『近世の地下信仰―かくれキリシタン・かくれ題目・かくれ念仏』...</summary>
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      さらに書籍を購入。

『近世の地下信仰―かくれキリシタン・かくれ題目・かくれ念仏』
『新聞集成　明治編年史』(全15巻)

後者の全15巻がおよそ1000枚のLPとCDをはじめ書籍やらオーディオやらですっかり狭くなった部屋をさらに住みにくくするかなどもはやどうでもいい。このスピードで書籍を買い続けて果たして読むスピードが追いつくかどうかという疑問もまた愚問である。「欲しい」と望む衝動に忠実であることこそが楽しい。
      学生時代などクラシック音楽を聴いていたせいなどもあって、手に取る書物はどちらかといえば西洋のものに偏っていた(たとえばカントやヘーゲルやマックス・ウェーバーなど)が、ここのところすっかり「ジャポネスク」である。日本を知ることがこんなに面白いとは知らなかった。

江戸時代から明治時代にかけての書物(仏教書が職業柄どうしても多くなっているが)を読んでいて、どうやら仏教にとって幸せな時代ではなかったことがわかってきている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、一向一揆、キリシタン、不受不施派といったラディカルで政治的な力を持ちかねない信仰を弾圧し、しかも自らを神格化して以降は、およそ仏教もつ力は世俗的権力によって去勢された。現在は、再び勢いを取り戻すための法的拘束力はなくなっているけれども、現実には伝統教団は弱体化されたままではないか。

冒頭に挙げた2冊のうち前者は、その「去勢」の実体を知るために、後者は明治以降の宗教のあり方を知るの資料として購入した。後者はとくに、今後資料として他の用途にも役立っていくことを期待している。
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   <title>こんな夜更けまで</title>
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   <published>2007-12-02T18:08:29Z</published>
   <updated>2007-12-02T18:37:11Z</updated>
   
   <summary>こんな夜更けまで本を読む。安丸良夫の『神々の明治維新』。近世から近代へと移る中で...</summary>
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      こんな夜更けまで本を読む。安丸良夫の『神々の明治維新』。近世から近代へと移る中で宗教はどう変容したか。まだずぶの素人であるこの分野。とにかくあらゆる情報が新鮮である。参考文献をひとつひとつ調べて、メモをしたり付箋をつけたり購入したり。明日の仕事には少々堪えるかもしれない。しかし、この充実感がいい。こういうときは仕事もなんとか乗り切れる。私のブログにしばしば登場する友人 赤松林太郎氏のブログに最近書いてあった。

「私は、口座の残高がマイナスになりながらも、寒い早朝からパリのオペラ座で安いチケットを求めて並んだ日々のことを時々思い出す。」
      社会人として定収ある私は、「残高がマイナス」となるところまではいかないが、月に何万もかけて本を買っているこの頃―――つい２、３ヶ月前は本の代わりにレコードだった―――は、否応なく懐事情を悪化させる。

おそらくは、蓄えが気にならないほどに何かに没頭しているときの方が、きっと充実しているはずだと信じ、晩年のモーツァルトの借金生活と一見逆説をなすあの透徹した音楽を心中に聴きながら、今日もさらに2冊を購入した。プレゼントするために買った2冊をあわせれば4冊だ。

どこかのお寺の住職でもしていれば、わざわざ自腹を切らなくてもよかったはずの書籍。学生時代なら、親が払ってくれたであろう書籍。キツいけれどもこの充足感を犠牲にする気は無論ない。仏教教団がもっと学問を重視してくれたらいいのにと思うが、それよりも早く書籍がとどくのが楽しみだ。

今日買った本
『日本宗教制度史の研究　改訂』豊田武
『一揆・監獄・コスモロジー周縁性の歴史学』安丸良夫
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   <title>「真空地帯」</title>
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   <published>2007-11-28T17:13:53Z</published>
   <updated>2007-11-28T17:37:24Z</updated>
   
   <summary>かつて高校時代に敬愛した日本史の先生に薦められて野間宏の「真空地帯」を読んだ。第...</summary>
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      かつて高校時代に敬愛した日本史の先生に薦められて野間宏の「真空地帯」を読んだ。第二次大戦中の軍隊生活の凄惨さを「真空地帯」というタイトルに例えて描いたこの小説は、ひたすらに陰鬱な軍隊の実体を暴き、今なお私の心に鮮やかな印象を残している。日本史の先生は、確か戦後間もないころに生まれた人だったが、何を思ってこの著作を薦めたか。二度と過ちを繰り返さないためか、あるいは、戦争という極限状態の中での人間の狂気を教えるためか。いずれにせよ、何らかの教訓を教えるために読ませたのだろう。
      <![CDATA[この小説が映画化されているのを知ったのはつい数日前のことである。早速入手して鑑賞したが、原作にどれぐらい忠実なのかについては、読んでから10年も経つ現在では忘却された部分も多い。とはいえ、近年話題をさらった映画「男たちの大和」に美化されて描かれる軍隊生活よりも、ずっとリアルな内容に仕上がっていることは、「真空地帯」の制作年代が戦後間もない1952年であることを考えれば、疑いないところであろう。ほんの数年前まで軍隊にいたであろう人が世間に多くいるような時代に、史実に基づかない映画が作られるはずはない。「男たちの大和」を見るよりは私としては断然こちらを薦めたいが、ただ陰鬱な映像の続くこの映画は、歴史やドキュメンタリーに興味がある人でなければ楽しめないかも知れない。しかし、そうは思いながらも、極限状態の中での狂気を知らしめてくれるこの作品は見るべきものを持っていると信じるのである。勉強だと思って是非ご覧ください。

リンク：<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000BD87X8?ie=UTF8&tag=gradusadparna-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000BD87X8">真空地帯</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=gradusadparna-22&l=as2&o=9&a=B000BD87X8" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />]]>
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   <title>永観堂ライトアップ / 学園祭</title>
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   <published>2007-11-25T09:14:09Z</published>
   <updated>2007-11-25T14:21:04Z</updated>
   
   <summary>寺社の参拝とはおよそ非日常の空間を味わうひとときだと思うが、生まれも育ちも就職先...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://vidya.senrenja.net/eikando2007.html" onclick="window.open('http://vidya.senrenja.net/eikando2007.html','popup','width=600,height=400,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://vidya.senrenja.net/eikando2007-thumb.jpg" width="240" height="160" alt="" align="left" /></a>寺社の参拝とはおよそ非日常の空間を味わうひとときだと思うが、生まれも育ちも就職先もお寺の私にはそれはむしろ「日常」である。昨夜は永観堂のライトアップを訪ねたのだが、色づいた紅葉に「わぁ綺麗」と酔うよりも、庭園の作り方・見せ方、ライティングの技術等々が気になる。いわゆる職業病というやつだろうが、しかし永観堂はその紅葉の美しさが有名な寺院、学ぶところは多い。いかにして参拝者に満足してもらうか、どうやって大勢に来てもらうか、勉強させてもらった。そして、多少意外ではあったが、私自身も楽しんだ。坊さんの中には、非日常を味わえぬ寺社仏閣めぐりに興味をもたない人もいるが、「同業他社」(笑)を自らの足で歩いて知ることは重要だと思う。素晴らしいひととき。ありがとう永観堂。]]>
      永観堂から自転車をこぐこと15分。向かった先は京都大学である。一年に一度、この学園祭の時期にサークルのOBが集まる。毎年来る人、久しぶりに再会した人、懐かしそうな顔を見合わせると時をおかずトリオやカルテットが始まる。クラシックというとコンサートホールなどでかしこまって聴くべきものという印象が一般にはあるだろうが、この空間は音楽的興奮に包まれたライブハウスである。演奏者と聴衆は曲ごとにいれかわり、両者のあいだに隔たりはない。一度こういう体験をすると、コンサートホールで○○コンクール何位などと書かれたプログラムを見ながら演奏を拝聴するのが馬鹿馬鹿しくなる。結局のところ、クラシックもポップスやロックと同じように、聴く者を興奮させ、そして自らもその中で興奮してこそであり、肩書きで聴かせるものではないと思う。コンクールの意義を全く認めないつもりはないが、偏愛されすぎているのが現状ではないか。

私も実はこっそりとMy楽器(ハーモニカ)を持ち込んでいた。およそ2年ぶりに演奏することになるかとも思ったが、演奏をせぬまま帰ってきた。私がクラシックにどっぷりと浸かった学生時代の6年間が痛切に教えくれたものは、音楽的センスのなさであった。しかし、それは悲しむべき事実であるよりも、幸せな経験であった。それなりに一生懸命にやったから、超一流との違いをはっきりと知ることができ、音楽は「仕事」よりも「趣味」としてつきあうべきものと知った。2年間練習をしなかったブランクに加えて、今さら私が楽器を手に取るのも無駄かというトラウマ―――趣味としてつきあうつもりなら気にすることなどないはずなのに！―――が、人前で演奏することを拒否させる。再び楽器を手にするのは、心の整理がついたときだろうか。
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   <title>読書の秋。書物の氾濫。</title>
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   <published>2007-11-19T14:10:53Z</published>
   <updated>2007-11-19T14:59:15Z</updated>
   
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      17日の土曜日は赤松林太郎氏を迎えて知恩院御影堂でのピアノコンサート。なぜかその司会を私が務めるというサプライズは、満堂の大衆の前で話をするという貴重な体験であった。柄にもなく、脳内は真っ白だった。人前に立つことにあんまり緊張するタチではないのだが、話すのってあんまり得意じゃないからな。用意した原稿を読むのに精一杯。他にも先々週から先週にかけては原稿の締め切りがあったりと大がかりな仕事がいくつもあって、いやあ本当に疲れましたよ。昨日はヤフオクで落札した日本古典思想体系が届いたけど開封する気力もなく、寝てしまった。でかい段ボールに入って今も玄関口に横たわっている。しかしなぜ書物がでかい段ボールに入って届くのか―――それは同じ出品者から15冊も落札したから。「あーあ、部屋はまた狭くなる」という悩みはいよいよ深刻で、ワンルームマンションがいよいよ住みにくくなってきているが、新しい本がやってきたときの喜びはしばし悩みを忘れさせるから手強い。

さっきコタツを出したが去年よりもずいぶんと部屋が狭くなっていることを実感する。もっと楽にコタツを出せたはずなのに。恨み言は言うまい。心が書物を欲しているときに我慢する必要は無かろう。コタツの上にはたった今開封した段ボールから出してきた本居宣長。先日岩波文庫の古書で『玉くしげ』を買い、今朝職場へ向かうバスの中で読んでいたが、示唆されることは多く、本居宣長や平田篤胤など江戸時代の思想家を読んでこなかった後悔は深い。書物を読んでいてそこに自分がまったく知らなかい世界があったとき、私はいつも背筋が凍り付くような感じを受ける。自分の見識の浅はかさを思い知るからなのだろう。宣長と篤胤はそういう体験をひさびさにさせてくれた。大学時代に読んだマックス・ウェーバー以来だ。宣長と篤胤についてはいつかまたここに書ければと思う。
      
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   <title>ブログ再開</title>
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   <published>2007-11-06T17:25:57Z</published>
   <updated>2007-11-06T17:25:57Z</updated>
   
   <summary>「再開」なんて書くと大げさだが、ここしばらくブログみたいな軽いタッチのものを書い...</summary>
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      「再開」なんて書くと大げさだが、ここしばらくブログみたいな軽いタッチのものを書いていなかった。学生時代は気軽に発言できても、就職してからだとやっぱり「立場」を気にしてしまうから、ブログ書くにも気遣いがいる。そういう事情も一つ。書いたこと言ったことは常に誰か見ているから徹底的に気にしなきゃいけない―――ブログだからって気楽に書いてたら真剣に読んでいる人に失礼だ―――なんていう躊躇も理由の一つ。あるいは、ただ忙しかったことも理由に加えられるかもしれない。

でも、何かを書くスペースがあるってのは嬉しいことで、これを素直に喜びしばらくは気楽に書く。スポーツ選手が発信するメッセージよりも重く、政治家の活動報告ブログよりは軽く。私にとって、読むことよりも書くことの方がアタマを使うとこの頃気づいた。

今日買った本。

E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』岩波文庫
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫
三浦佑之『口語訳 古事記 人代篇』文春文庫

3冊も購入(上2冊は衝動買い)したのは、今日嫌なことがあったから。本やレコードを買えばストレスが発散されるから素晴らしいが、衝動買いした本やレコードはそれが積み上げられて「読まなきゃ」「聴かなきゃ」というストレスになる。が、後者のストレスは心地いい。

「われわれの間では、人は罪の償いとして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために、教団に入る。」(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』より)

他にも、坊主が戦争に参加することへの批判、肉食し飲酒することへの批判。坊主バッシングは著書の一部しか占めないが、私にとっては当然この部分が興味深い。著者がイエズス会の宣教師だったことをすれば、坊主バッシングがいくらか行きすぎているかもしれないにせよ、指摘が事実を伝えていることは確かだろう。今に至るまで日本の仏教が極めて「俗世的」であると指摘されることに否定の余地はない。だが、俗世的な信仰が長く受容されてきたのなら―――むろん戦争賛美や権力との癒着などは絶対に避けるべきだが―――逆に俗世的ななかにひとつの宗教のありかたを見いだすことも可能だと歴史は語っているのだろうか。
      
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